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とよのパートナーズのふたりの所長 お互いの中に自分を見た、ふたりのあゆみ 年齢も、税理士になった時期も異なる、乾 禎則と高砂 昭宏。 なぜこの税理士事務所は、所長がふたりいるのか?何が、お互いを引き寄せたのか? ぜひ、「税理士法人 とよのパートナーズ」が発足のきっかけをご覧ください。 |
高砂が税理士として登録されたのは平成9年。乾は平成17年でした。年齢も、乾の方が高砂より3つ年上です。
そんな何の接点もないようなふたりが出会ったのは、TKC(会計事務所や税理士事務所、地方公共団体などに対して情報サービスを提供する企業)豊能支部という地元の集まりでした。
しばらくは会合などで軽く話をする間柄でしたが、高砂が「あきんど塾同友会」の会長、乾が「池田商工会議所 青年部」の会長を務めるようになったころから徐々に会話が増えていきます。
そして乾がTKC豊能支部の副支部長に就任した折、会のイベントで盛り上がった際、お互いに似たようなものを感じ取り一気に距離が縮まっていったのでした。
高砂は乾について、当時の印象を「人懐っこく、いつも人の中心にいた」と言います。乾の周りには人が自然とあつまる、すごいひとやなと、尊敬したのを覚えているそうです。
こうしてお互いの存在を認め合った両人。ある日、ゴルフ帰りの車の中で高砂から乾へ
「一緒に税理士法人を立ち上げないか」
と打診します。
高砂はかねてより、
「自分のクライアントの社長さんに万一のことがあったら、残された会社や従業員さんは困ることになるのではないか?もっと幅広いサポートができる環境を整えたい」
「同じように、自分にもし何かあったら、顧客のみなさんが困ることになる。そうなったとしても誰かが困ることのないよう、強い体制を整えておきたい」
と考えていたのです。
高砂は、乾の中に自分と似たものを感じていたことから、この打診に至ったのでした。
「それいいね!」というような乾の言葉を最後に、その後とくになにも進展しないまま時は流れようとしていたため、高砂もそのまま法人化することを諦めかけていました。
しかしその後、共通の税理士の先輩から「乾さん、返事待ってんで?」という話を聞きます。
「え?そうなの?」——あのライトな返事は、正式なOKだったのか……。
乾もまた、高砂の中に自分を見たことから、ともに法人化する企画に賛成だったのです。
その日の夜、乾宅の電話が鳴りました。
高砂はその電話で、「自分に何かあったとき、クライアントに迷惑をかけることだけは絶対に避けたい」という想いを話します。
この想いは、乾も共感するところでした。そしてそのためには、やはり法人となる必要がある、という結論に至り、ふたりで法人化することを決めたのです。
その後、実際に法人として動き出す時期や業務内容、スタッフについてなどの打ち合わせを重ねますが、最後まで決めかねたのが「法人名」。何種類かの案は出ますが、なかなか「コレ!」といったものに絞れず、数日が過ぎていきました。
そんなある日、ふと高砂の脳裏にある単語が浮かびます。
“パートナー”
これに、乾がこだわっている「豊能」という地域の名前をつなげ、「豊能パートナーズ」という名前を思いつきます。高砂はさっそく乾に電話をかけ、この案を伝えました。
すると、「実は、おれもその名前が浮かんでいた」との答えが。偶然にも、ふたりは同じ法人名を考えていたのです。
これが、事務所の方針も固まった瞬間でした。
漢字の「豊能」ではイメージが堅いので、もっと親しみを持てるようにしようということで、ひらがなで「とよの」と表記することにしました。
「税理士法人 とよのパートナーズ」。
乾と高砂。事務所スタッフ。ご縁あって関わっていただける提携企業様。
そして、乾・高砂共通の想いである、「クライアント様との長いパートナー関係」。
私たちの法人名には、これらの想いがぎゅっと込められています。
私たちは、クライアントの企業様が末長くご繁栄されるため、どんな時にも頼れるパートナーとしてずーっと寄り添う、そんな税理士事務所でありたいと思っています。
「永続的に続くパートナー関係」
両手で固く握手した様子を俯瞰で捉えデフォルメした図形に、「とよのパートナーズ」の頭文字「T」と「P」を組み合わせたロゴマーク
交えた手は無限大のマークになり、今回の合併はもちろん、お客様にとっても末長く続く関係性を表現します。
また、全体のフォルムは竹とんぼを意識しており、どちらも欠かすことのできない翼は密接な関係と助け合いを表します。
さらに上昇する竹とんぼは御社のこれからの発展を願います。
税務、会計はもちろん他の些細なことでもお悩みごとがございましたらお気軽に当事務所までご相談下さい。プライバシーを守り、一生懸命お客様に満足していただくように努力させていただきます。
高校2年のバイク事故で、つまづいた学生期。 受験生として、大人として、夫、父、そして男として、やり遂げなければならないことがある どんなに必死にもがいても、一所懸命に取り組んでも、なかなか結果が見えないことの方が多いのかもしれない。それでも、その先には必ず答えがある。 とよのパートナーズ所長・乾 禎則の半生には、そんなメッセージが見えてきます。 税理士資格取得のために11年以上自分とたたかった乾の、今につながるストーリーをご紹介します。 |
昭和40年4月、大阪府池田市に生まれた乾。地元・池田市立池田中学校へ通ったのち、今の事務所と同じ岡町エリアにある大阪府立桜塚高等学校へ進学します。中学では野球部に所属する活発な少年。飛行機が頻繁に行き交う地域に住んでいたためか、子供の頃から飛行機が好きで、パイロットになることが夢でした。
そんな彼ですが、あるとき「バイク」の魅力に目覚め、没頭するように。ところが高校2年も最後というころ、試験中に大きな事故を経験し、2度目の「高校2年生」を過ごすことになります。おかげで、修学旅行も2度経験しました。
卒業後は、(魚の養殖が有名な)近畿大学農学部になんとか合格。しかし、そのころの乾には“人生の目標”と言うべきものがなにもなく、アルバイト中心の生活を送っていました。
そんななか、アルバイト先で出会った後輩に「これからは資格が大事ですよ!」と言われ、確かに手に職はつけておくべきかと簿記3級・2級を取得。このとき、「会計士」「税理士」という仕事を知るのです。
幼少の頃そろばん塾に通っていたため数字には強く、大学も理系であったため、「もしかしたら税理士の資格が取得できるかも?」と大原簿記専門学校に通い始めました。
大原簿記の在学中、TKC(会計事務所や税理士事務所、地方公共団体などに対して情報サービスを提供する企業)会員事務所の出力帳簿を届けるアルバイトをしていました。市内の税理士事務所から、豊能支部の事務所まで夜な夜な帳簿を配達する仕事で、実際の税理士事務所に出入りするきっかけとなりました。
そして26歳のころ。“2回目”の高校2年生のころから付き合っていた女性との結婚話が持ち上がったことで、これまでのアルバイト生活に終止符をうつべく、本気で就職を決意します。数ある税理士事務所のなかから、帳簿配達のなかでも帳票が分厚かった先生の事務所で求人募集がされていたため、すぐに面接をお願いし採用が決まりました。
入社1年後、勤務先事務所の先生に仲人をお願いし、件の彼女と無事結婚に至ります(妻とは偶然にも、誕生日が同じ!)。
先生はいつも、「税理士試験では“会計人コース”を取り揃えておき、GWから一気に勉強しなさい。きみなら、必ず合格するから。」とおっしゃってくださいました。
しかし乾は結果を出せないまま、それから8年もの期間を過ごすことに。結婚2年目に第一子、その2年後には第二子が誕生し、「良き社会人」「良き受験生」「良き配偶者」「良き父親」の4役をバランスよくこなすということは、税理士を目指し始めた乾の想像を大きく超えて、あまりにも大変なことだったのです。
在籍していた事務所の業務内容は、とくに「資産税」を専門としていました。
自分の立場や責任に追われ、“焦り”を感じることもあった乾。不安を抱える乾に、先生は「何事も、まずは自分でやってみなさい」とおっしゃいます。
仕事の後はいろいろなところに食事に連れて行ってださり、仕事以外のことでも夜遅くまでお付き合いいただき、本当にいろいろなことを学びました。
在職中、税理士試験の全5科目中2科目には合格していたものの、
「自分は本当に税理士になれるだろうか?」
「この仕事を、一生続けていけるのだろうか?」
「将来、おおきくなった子供たちに、やり遂げた“自分”を見せることができるのか?」
という不安を抱きつつ、勉強時間の融通を聞いてくれる一般企業に転職します。
新しい職場に従事しながら夜大原簿記専門学校に通い、それから5年——。ようやく税理士試験5科目の合格を果たしたのでした。
税理士試験合格後はすぐに事務所の設立を企画。ありがたいことに、前職で大変お世話になったあの先生が、事務所横の空きスペースを貸してくださいました。
平成18年2月23日、乾 禎則の税理士記念日。この日にちを登録日とし、関与先ゼロからのスタートです。ここから、また新たに「税理士・乾」の奮闘がはじまりました。
—これまでの軌跡を振り返る中で、乾が“一番の出会い”と感じているのが、「池田商工会議所内に青年部を作るので、チャーターメンバー(創立会員)として参加しないか?」とのお誘いです。
このときのメンバーと、同じ「経営者」として青年部活動をするなかで、結果として自分自身を知ってもらえたことが、関与先が増加するきっかけになったと語ります。
その後、豊中市役所横に移転し、司法書士の先生とともに、資産税に特化した合同会社の設立も行いながら、8年。そうしているうちにスタッフも増え、手狭になったことから、現事務所(岡町駅前)に再びの移転を行います。
そして、平成29年9月1日。
現在の乾のパートナーである、税理士・高砂 昭宏を事務所に迎える形で、「税理士法人とよのパートナーズ」が走り出したのです。
税理士 乾と高砂がタッグを組み、順調な成長を見せる「税理士法人とよのパートナーズ」。そんな乾が今でも「忘れない」と語るのは、彼の関与先一号となった「豆腐屋さん」です。
そのお店は、中学時代の野球部で一緒だった友人の実家でした。人とのつながりと絆に感謝した経験です。
その後も、古くからの友人が営む会社に関与したり、またその友人が別の経営者様を紹介してくれたりすることで、徐々に関与先を増やしていきました。
今でも、関与先様からの紹介や口コミなどで、ご縁はどんどん広がっています。
乾 禎則
平成17年8月 | 税理士試験合格 (合格科目:簿記、財表、所得税、相続税、消費税) |
平成18年2月 | 乾 禎則税理士事務所 開業(豊中市岡上の町) |
平成20年4月 | 事務所移転(豊中市中桜塚3-10-12-2F) 豊中市役所南側、ローソン100 2F |
平成27年11月 | 事務所移転(豊中市岡町北1-2-20-3F) 阪急岡町駅前 |
平成29年9月 | 合併、税理士法人とよのパートナーズ設立 |
母親が何度も呼び出されるような、やんちゃな高校時代。 「とよのパートナーズ」所長の意外な青春時代と、今日に至るまでの紆余曲折。 学生時代から士業を目指し、遊ぶヒマもないほど勉強に打ち込む。一般の若者とは一線を画す、マジメな人物像— とよのパートナーズ所長・高砂 昭宏は、そんな「税理士」のイメージとは真逆をゆく青春時代を過ごしていました。 税理士になるつもりもなかった高校時代。どんな経験が、彼を現在へと導いたのでしょうか。 |
昭和43年3月、大阪府吹田市青山台に生まれた高砂。大阪府立少路高等学校(現在の千里星雲高校)に、一期生として入学しました。“先輩”という存在がないため緊張感もなく、気ままな生活を送ります。勉強にもろくに取り組まず、あげく、母親が学校に呼び出されることもしばしば。
「“税理士”なんてお固いイメージの仕事からかけ離れたような、どうしようもないヤツだったんですよ。」と、学生時代を振り返ります。
時は流れ、大学入試もことごとく失敗。父親が税理士だったこともあり、結果、なんとなく経理の専門学校に流れ着いたのでした。
とはいえ本人は税理士になる気などなく、高校時代同様、緊張感のない日々を送ります。簿記1級には合格するも、税理士試験においては中途半端。さらに、周りの学生たちが就職活動に躍起になっているさなか、自動車免許取得の合宿に旅立つ……という暴挙に出たため、一般企業への就職も叶わず。
そんななか、唯一内定した会計事務所に就職することになったのです。
会計事務所に就職してしばらく経過したある日、大阪・中央卸売市場の仲卸の会社に出向を命じられ、ここで2年ほど働くことになります。
この時はじめて、会社の「経理」というのは帳簿を付けることだけではなく、支払管理・入金管理・請求業務・資金繰りなどといった事柄を、トータルで考える仕事なのだ、ということを学びます。この気づきに、高砂は“面白み”を感じました。
こうして実際の現場で会社経営に携わっていくうちに、「自分で何か起業したい」という想いが生まれます。そのための方法として税理士の道を選ぶことを考え、税理士の資格取得を目指しますが、“もっとも身近な税理士”であった父親が癌で他界。この時、高砂25歳。ようやく真剣に士業への道を目指そうという時に、父の税理士事務所が無くなってしまったのです。
それでも、税理士資格を取ることを真剣に考え、会計事務所に勤務しながら試験勉強を続けます。そして29歳の時、晴れて税理士試験に合格。その2年後である平成11年、ついに独立開業を果したのです。
過去の数字にばかりこだわるのではなく、未来の予測や、経営に必要な情報を抽出する建設的な考え方である「管理会計」という手法。これは、はじめて就職した会計事務所で習得したものであり、現在でも高砂の基礎となっている考え方です。
しかし「税理士事務所」というものは、税金の計算をしたり記帳代行をするところであるというイメージが一般的で、そもそも「税理士に経営の相談をする」という発想が、クライアントの中にありませんでした。
税理士事務所時代、作成した試算表などの数字をクライアントの社長に見てもらえず、
「税金が高い!」
「そんな税金払えん」
「こんなに利益が出ているはずない」
「現金がないのだから、計算が間違っているんや!」
といった会話は日常でした。
自分のやっている仕事が誰かの役に立っているという実感が無いなか、「税理士」という仕事そのものに失望を感じるようになっていったのです。
独立開業後は、もっと「管理会計」という考え方を全面にアピールし、「経営計画」や「経営助言」を行うことできっと顧問先も増えると踏んでいました。そうすることで、社長に少しでも数字を見てもらえ、自分の出した数字がクライアントの経営に活きるのではないかと思ったのです。税金のサポートはもちろん、社長の経営のお手伝いもできる税理士を目指し、希望に燃えました。
ところが、順調に顧問先が増える……ということもなく、自分自身の経営が伸び悩むことに。一般の方のなかでは、まだまだ「税理士事務所といえば税金まわりの仕事」というイメージが先立っていたのです。
同業の先輩にも、「そんなもの、社長が必要としていないんやからやってもムダや」と言われ、悶々とした日々を過ごしました。
そんな行き先の見えない暗雲の中、高砂はいくつかの出会いを経験します。
ひとつは、ある講演で耳にした
「あなたは、“税理士”という自分の仕事を、胸を張って家族に説明できますか?」
という言葉との出会いです。この問いかけをされたのは、高砂が今もなお尊敬し続け、現在も静岡でご活躍されている坂本先生という税理士です。
この問いかけを聞いた時、高砂はハッとします。
かつては税理士という資格に失望し、自分の考えを「必要とされていないんや!」と一蹴され、税理士としてのプライドすら危ぶんでいた日々。
父が歩んだ道、自分が目指した税理士としての在り方を、家族に誇れなくて良いのか—と。
そしてもうひとつは、経営者の学びの場である「なにわあきんど塾同友会」という会において、「会長」に任命されたことです。
その折、前会長の方から「商売につながるような経験をさしたる!」といろいろな経営者の方々と引き合わせていただき、「経営者の考え方」「人との付き合い方・話し方」「身だしなみ・振る舞い」などなど、さまざまな経験と勉強の機会に恵まれました。
そして、同じ地域の先輩税理士から「中途半端にやるからうまくいかないんや」「やるのなら最初から、成果が出なくても耐えて耐えて、徹底的にやれ!」と教えられたことは、高砂にとって大きな機転となったのです。
これらの経験を経て、自身の中で確信を得ていた「管理会計」の方向性を徹底。クライアントを毎月訪問、数字について理解が得られるまでわかりやすく説明し、経営に関する悩みは真摯に聞き、一緒に悩む。また、必要に応じて銀行に同行するなど、お客様の経営にとことん寄り添う姿勢を貫きました。
その結果、クライアント間でも評判を呼び、スタッフも増え順調に経営できるようになったのです。
そうしたある時、高砂税理士のなかでふと、ある思いが浮かびます。
「今関わっているクライアントの方々は、自分が亡くなられたら、困ることになるのではないか」
—自身の父が亡くなった時の経験が、ふと頭をよぎったのです。
社長様に安心して頼っていただき、クライアントの会社を本当の意味で支えるためには、今の規模ではいけない。法人化して「税理士法人」となることで、真のパートナーにならなければ。
これが、「税理士法人 とよのパートナーズ」の起源であり、所以なのです。
高砂 昭宏
【著書】
平成9年12月 |
税理士試験合格 (合格科目:簿記、財表、所得税、法人税、相続税) |
平成11年12月 |
高砂昭宏税理士事務所 開業(豊中市新千里西町) |
平成15年4月 |
事務所移転(豊中市新千里西町3-2-3 2F) 西町商店街 |
平成29年9月 | 税理士法人とよのパートナーズ設立(豊中市岡町北1-2-20-3F) 阪急岡町駅前3F |